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アインシュタイン自身の言葉

モスコフスキーとはどういう人か私は知らない。ある人の話ではジャーナリストらしい。自身の序文にもそうらしく見える事が書いてある。いずれにしても著述家として多少認められ、相当な学識もあり、科学に対してもかなりな理解を有(も)っている人である事は、この書の内容からも了解する事が出来る。
 この人のアインシュタインに対する関係は、一見ボスウェルのジョンソン、ないしエッカーマンのゲーテに対するようなものかもしれない。彼自身も後者の類例をある程度まで承認している。「琥珀(こはく)の中の蝿(はえ)」などと自分で云っているが、単なるボスウェリズムでない事は明らかに認められる。
 時々アインシュタインに会って雑談をする機会があるので、その時々の談片を題目とし、それの注釈や祖述、あるいはそれに関する評論を書いたものが纏(まと)まった書物になったという体裁である。無論記事の全責任は記者すなわち著者にあることが特に断ってある。
 一体人の談話を聞いて正当にこれを伝えるという事は、それが精密な科学上の定理や方則でない限り、厳密に云えばほとんど不可能なほど困難な事である。たとえ言葉だけは精密に書き留めても、その時の顔の表情や声のニュアンスは全然失われてしまう。それだからある人の云った事を、その外形だけ正しく伝えることによって、話した本人を他人の前に陥れることも揚げることも勝手に出来る。これは無責任ないし悪意あるゴシップによって日常行われている現象である。
 それでこの書物の内容も結局はモスコフスキーのアインシュタイン観であって、それを私が伝えるのだから、更に一層アインシュタインから遠くなってしまう、甚だ心細い訳である。しかし結局「人」の真相も相対性のものかもしれないから、もしそうだとすると、この一篇の記事もやはり一つの「真」の相かもしれない。そうでない場合でも、何かしら考える事の種子くらいにはならない事はあるまい。
 余談はさておき、この書物の一章にアインシュタインの教育に関する意見を紹介論評したものがある。これは多くの人に色々な意味で色々な向きの興味があると思われるから、その中から若干の要点だけをここに紹介したいと思う。アインシュタイン自身の言葉として出ている部分はなるべく忠実に訳するつもりである。これに対する著者の論議はわざと大部分を省略するが、しかし彼の面目を伝える種類の記事は保存することにする。
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普通には殆

 出がけのときは、やれ/\、また重苦しく気骨の折れることと、うんざり致します。逢つて見る眼には思ひの外(ほか)、あつさりして白いものゝ感じの人でございます。たゞそれに濡(ぬ)れ濡れした淡い青味の感じが梨(なし)の花片(はなびら)のやうに色をさしてるのが私にはきつと邪魔になるのでございませう。
 その人は体格のよい身体をしやんと立てゝ椅子(いす)に腰をかけ、右膝(ひざ)を折り曲げてゐます、いつも何だか判らない楽器をその上に乗せて、奏でてゐます。普通には殆(ほとん)ど聞えません。私は母から届けるやう頼まれた仕立ものを差出します。その人は目礼(もくれい)して受取つて傍の机の上に置きます。そして手で指図(さしず)して私をちやうどその人の真向うの椅子に掛けさせて、また楽器を奏で続けます。その人は何も言ひません。細眼にした間から穏かな瞳をしづかに私の胸の辺に投げて楽器を奏でます。私の不思議な苦しみはこれから起ります。

黄菊

その人にまた逢(あ)ふまでは、とても重苦しくて気骨(きぼね)の折れる人、もう滅多(めった)には逢ふまいと思ひます。さう思へばさば/\して別の事もなく普通の月日に戻り、毎日三時のお茶うけも待遠しいくらゐ待兼(まちか)ねて頂きます。人間の寿命に相応(ふさ)はしい、嫁入り、子育て、老先(おいさき)の段取りなぞ地道に考へてもそれを別に年寄り染みた老け込みやうとは自分でも覚えません。縫針の針孔(めど)に糸はたやすく通ります。畳ざはりが素足の裏にさら/\と気持よく触れます。黄菊(きぎく)などを買つて来て花器に活(い)けます。

欺瞞

 どうしたら、それが可能でしょうか。わたしの方法は、愛という観念を、あっち側から扱う方法です。人間らしくないすべての事情、人間らしくないすべての理窟とすべての欺瞞を憎みます。愛という感情が真実わたしたちの心に働いているとき、どうして漫画のように肥った両手をあわせて膝をつき、存在しもしない何かに向って上眼をつかっていられましょう。この社会にあっては条理にあわないことを、ないようにしてゆくこと。憎むべきものを凜然として憎むこと。その心の力がなくて、どこに愛が支えをもつでしょうか。

 愛という字は、こんなきたならしい扱いをうけていていいでしょうか。

 愛という字は、こんなきたならしい扱いをうけていていいでしょうか。
 愛という言葉をもったとき、人間の悲劇ははじまりました。人類愛という声がやかましく叫ばれるときほど、飢えや寒さや人情の刻薄がひどく、階級の対立は鋭く、非条理は横行します。
 わたしは、愛を愛します。ですから、このドロドロのなかに溺れている人間の愛をすくい出したいと思います。

愛ということばは

愛ということばは、いつから人間の社会に発生したものでしょう。愛という言葉をもつようになった時期に、人類はともかく一つの飛躍をとげたと思います。なぜなら、人間のほかの生きものは、愛の感覚によって行動しても、愛という言葉の表象によってまとめられた愛の観念はもっていませんから。
 更に、その愛という言葉が、人間同士の思いちがいや、だましあいの媒介物となったのは、いつの頃からでしょう。そして、愛という字が近代の偽善と自己欺瞞のシムボルのようになったのはいつの時代からでしょうか。三文文士がこの字で幼稚な読者をごまかし、説教壇からこの字を叫んで戦争を煽動し、最も軽薄な愛人たちが、彼等のさまざまなモメントに、愛を囁いて、一人一人男や女をだましています。

芸術家

 芸術家ハ、




イツモ、弱者ノ友デアッタ筈(はず)ナノニ。
 ちっとも秋に関係ない、そんな言葉まで、書かれてあるが、或いはこれも、「季節の思想」といったようなわけのものかも知れない。
 その他、
 農家。絵本。秋ト兵隊。秋ノ蚕(カイコ)。火事。ケムリ。オ寺。
 ごたごた一ぱい書かれてある。

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